「摩擦熱」

摩擦熱

作詞:@cheapeer    / 作曲:@namenaname    / 歌:@cazbow

僕は今日 君と折り合った おとなしい太陽の下
街並みに 溶け込もう 靴の中の小石捨てて

沢山の鍵をかけたあの人はどこへ向かおうとしているの

あの日願ったデザートをあたたかい北風に
流し込んでみたい
あの日想ったフルーツをやわらかい鍾乳洞に
ああくるませたい

僕は今日 僕と折り合った おどけてる三日月の下
人なみに やり過ごそう 闇の中の光見つけ

沢山の問いを解いたあの人はどこへ向かおうとしているの

あの日愛したリキュールをこぼれそうな星空に
振りまいてみたい
あの日砕いたリソースをしなやかな流線型に
ああ走らせたい

海のセリフが聞こえてくる
「女は“月”で“答え”を知るの だから哲学なんて要らないわ」

120526(土)

ブログを書いていきたいのです。このことは以前からも抱えていた案件です。しかしながら、書けていない。あの頃のように書けていない。それがもどかしい。書かないことにより、文章力が弱まっているという実感がある。これも怖い。そうなると文章を書くこと自体の壁が以前よりも高くなる。面倒になる。更に書かなくなる。負の連鎖。それを食い止めたい。そういうことです。なぜあの頃は書けて、今は書けないのでしょうか。あの頃と今の違いを考えることで書けていない今の状況を打破することができるかもしれません。考えてみましょう。私にとっての「あの頃」とは、2003年10月8日からのおよそ3年間を指すこととします。2003年10月8日に私は無料のモバイルウェブサービスを使いはじめました。記録が残っていました。自分のことばを世界に表現することができるという理想の環境を得ることができたのです。ここからは思い出話です。今から8年程前、24歳の私は、当然まだcheapeerという名を名乗っておらず、全く別の名前(ハンドルネーム)で活動していました。その名前は現実社会と若干リンクしていました。つまり既に現実において、そう呼ぶ人間もいた、ということです。活動と言っても何をするでもなく、身辺雑記だったり日記だったりを公開するのみで、たまにコメントをくれる人のブログを訪れたりするという程度のものでした。大学を卒業し、何も分からないまま働き出した頃で、御多分に洩れず色々と社会に対して思い悩むことがあったわけです。そのアリガチナ若者の苦悩を案外ダイレクトに、文章化していました。ほぼ毎日何らかを更新していた覚えがあります。更新できない(できそうもない)という状況を説明するという更新をしたりしていました。そんな中、自分のブログ記事に対してわずかばかりの反響(主にコメント)があることは私にとって小さくて大きな幸福でした。思い出話はこれくらいにしましょう。この頃と今の違いが分かりました。ウェブ環境がソーシャル化しているか否かということに尽きると思います。この場合のソーシャル化というのは人と人とが密接につながることを可能にする環境であること、とします。当時のウェブ環境は今ほどソーシャル化していませんでした。ウェブ好きの人だったり、同人活動(極めて広義な意味での)をしたい/している人にとってだけの表現ツールだったと感じます。平たく言ってしまえば「何か表現したい人」の道具にすぎなかったのです。その環境も全く悪くなく日本的な奥ゆかしさのような雰囲気すらあったと言えましょう。というのは言いすぎですかね。しかし現代はソーシャル化が急速に進んでいます。情報の送り手も受け手も同じ位置・高度で、同じ土俵の上で好きなことを好きなように口する(ツイッター上ならばつぶやく)ことができるのです。かくしてウェブ上の人と人とは密接に繋がってゆきます。何か言いたいこと(その形質はさておき)があれば、1post140字以内でつぶやくことができるという構造的な変化は私にとって大きな衝撃でした。「別にブログを書かなくてもいいや」という意識が強くなっていきました。このことから推察されるのは、何か言いたいから書くのではなく、「存在がある」「私がいる」ということをアピールしたいが為に書く、という側面が非常に大きいということです。「何かについてのまとまった文章≒ブログの一つの記事」を時間をかけて一日に一つしたためるというのよりも、「自分の存在をアピールし、かつそこに自分なりのテイストを混ぜ込める文≒ツイッターでの数々のツイート」のほうが手軽で気楽である。また、そこには誰かしらの読者(フォロワー)がいることが既定されています。(またfavorite機能の持つ意味は大きい)かくして、ブログを書かなくなり、ツイッターでつぶやいて終えてしまう。ブログを書きたいという衝動に蓋をしてしまうのです。しかし、です。しかしやはりブログを書いていきたい。ある程度の文字数・量で意を尽くしてモノゴトを表したいという意識が強くなっていきました。最後に、私の思考の整理に付き合っていただきまして、ありがとうございました。

大自然への畏怖とテクノへの偏愛

「あ、圧倒的じゃないか…」大自然というと意味が広すぎますね。自然・樹海、大海原をここではイメージしています。人間、ましてや私一人では到底叶わないエネルギーを秘めるその大自然を畏怖し、畏敬しています。出来る限りそこから離れんとする意識を抱えながら、それと同時にそこに思い切って飛び込んでいきたい衝動もあることを確認します。ときに自然と機械は対置されます。自然という「よく分からないもの」への不安を人間は抱えています。いつ大地は揺れるのか?いつ海は陸を攻めるのか?一方、人間は制御可能または制御されているモノとしての機械を産み出しました。機械というテクノロジーは新しい文化・習俗を私たちにもたらしました。そうですね。音楽におけるテクノミュージックですね。不勉強なものでとりあえずウィキペディアを紐解こうとも思いましたがやめておきます。時間が無いからです。人工的に作り出した音が素晴らしいのは、100パーセントに近く人間の手によってコントロールされているからでしょう。嗚呼素晴らしい!

140の字固め

ツイッターとプロレスは似ています。
なぜか?

* ひとつのつぶやき(ツイート)は140字まで、という「お約束」
* お気に入りに入れる/入れられる(ふぁぼり/ふぁぼられ)というお約束
* RT(リツイート)というお約束

そういった「お約束」の元に成り立っているあたりが極めてプロレス的です。
また、どんなにマジメなことを言ってもいい、どんなにくだらないことを言ってもいい(というムードのある)この環境もライトな異種格闘技としての「プロレス」を連想させます。
もっともフォローする/されること、または、ハッシュタグによって成されている集団の輪が多種多様であるという観点から、リングは複数あると言えます。リングの構造は一つだし、システムの本質は変わっていないのだけれども。

見せ技ばかりを繰り出すトリックスターがいたり、リングの外での実況・解説に徹する人もいる。もちろん「観客」もいる。

モレスキンにピーナツバターを塗るのはおやめください:モーニングページのことなど…

現在、18冊目のモレスキンを使っています。タイプはルールド(罫線)。サイズはポケットサイズです。

■何をしているのさ?
日々モーニングページを実践しています。今朝で342日目でした。もう少しで1年か…
モーニングページというのは、毎朝必ず3ページ、とにかく書く。何を書いても構わない、という手法です。

■いつどこで書いているのさ?
通勤電車の中で書いています。早起き生活のおかげで、ほぼ座ることができます。座れずとも、ゆったり乗車。快適です。
最初の頃は電車の中で、ノートを開きペンを走らせることについて、抵抗がありましたが、今ではすっかり慣れてしまいました。というよりも周囲など意識の外。モーニングページ中は自分とだけ対話すればよいのですから。時間にして約30分。書く冥想。

■だいたいどのくらいの期間でモレスキン一冊を使い終えるのか計算してみた

一冊192ページあります。最初の1ページと巻末5ページぐらいは特別なページです。

「クレド(じぶんの信条など)」を書いておいたり、あとで目次(そのモレスキンのインデックス)を作ったりするために確保しておくのです。よって実際に使うページは192-1-5=186ページとなります。
モーニングページで毎日必ず3ページ消費しています。
186÷3=62
モーニングページだけでもおよそ2ヶ月で一冊を使い切る計算になります。
現実的には、日々のモーニングページの他に半ページ~1ページぐらい使うことがありましょう。
186÷4=46.5
一日に4ページ使う場合、47日、およそ一ヶ月半で一冊を使い切る計算になります。

■書いてきたコレをどのように活かすか?活かせるか?
まずは、趣味・創作の源泉と捉えることができます。作詞のアイデアになり得ます。
また、仕事上のアイデアの源泉でもあります。
更には、より上位概念の何か。意識の内奥の内奥。その更に内奥。そういう見えていなかった何かが書き出されている、ような気がします。

■何でそんな早起きなの?
という問いを時折投げかけられますが、それに対する回答の一つとして、
「モーニングページがどうしても書きたいからです。そのための時間が必要だからです。」
というものが挙がります。平たく言うと、です。
以上、朝陽の横顔の憂いを折りたたんでピーナツバターをつけながらお届けしました。

2012年4月に読んだ本

cheapeer_booklog – 2012年04月 (9作品)


世界史B用語集 改訂版
読了日:04月28日
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それは評価ではなく、お気に入り度のこと

2011年から、試しに読んだ本を記録しています。ブクログを参照のこと。読み終えた本にはメモ・コメントを残しています。また、5段階で(★の数で)評価をしていますが、これの基準がようやく見えてきました。

  • ★★★★★…最高。これなしには生きていけないのではないか、とすら思えた。今までに23冊。宝物。
  • ★★★★…面白くて、楽しくて、有益だった。新しい何かを得ることができた。大いなる発見があった。今のところ90冊。
  • ★★★…普通に面白かった。楽しかった。有益だった。93冊。
  • ★★…あまり面白くない。楽しくない。12冊。できれば、自分が読破した本のことを悪く言いたくないし、「面白くない」「楽しくない」と感じたくないという前提がある。
  • …論外。

つまり私がやっているのは個人的な「お気に入り度」の階層仕分けに過ぎないのです。同一の本に対してA さんは★1でもBさんは★5。その逆もしかり。そういうことです。そもそも、評価っていうのは、もっとこう、何ですか、比較・検討・分析を経てそれでアレがあれになってようやく下されるもの、なのかな。そういうのは疲れちゃいますんでね。書いてるほうも、読んでるほうも。